心に寄り添い声をカタチに
松田けい子物語
はじまりはじまり
昭和41年、京都市左京区で元気いっぱいに、”けい子”は生まれました。
おじいさん、おばあさんを始め、親戚も含めて十二人が一緒に暮らす大家族の中で、よく笑いよくしゃべる、活発な女の子に育ちました。
やがて一家は、京都市北西部の山あいに位置する原谷へ。
地元には学校がないため、ふもとの金閣寺小学校まで、山あり谷ありの通学路を、毎日40分かけて通い続けました。
その結果、けい子の足腰は人一倍強くなり、かけっこではいつも一番。運動会では常にリレーの選手に選ばれるほどでした。
何にでも積極的だったけい子は、勉強でもその才能を発揮し、成績はクラスで常に一番、学校でも一、二を争うくらいでした。
両親は、その才能を、もっともっと伸ばして、ゆくゆくは社会に貢献できるリーダーになってもらいたいと、私学の中でも教育環境に優れた、創価中学校へ進学させたいと思うようになりました。
両親の期待を一身に受けたけい子は、猛勉強の末、難関と言われた創価中学校への合格を果たしました。
けれども、当時すんでいた亀岡から、学校のある交野までの遠距離通学は、生易しいものではありませんでした。
それでもけい子は、毎朝4時30分に起き、電車を乗り継いで片道3時間の道のりを、無遅刻無欠勤で通いとおしました。
しかし、ここで松田家を試練が襲います。
父の事業が不振な上に、保証人の負債を抱えてしまったのです。父は事業を整理してサラリーマンに。やがて母も工場のラインパートに。
それでも両親はけい子のために、創価中学校への学費をとどこおらすことは一度もありませんでした。けい子は、その苦労に対して学業で恩返しをしようと、ますます勉学に精を出しました。
けい子の努力は実り、創価中学校での成績も常にトップを維持。やがて創価高校への進学も望めるようになりました。
この時に、大きな支えとなったのが、育英会奨学金制度でした。経済的な理由で進学をあきらめることのないように設けられたこの制度によって、両親への負担は大きく軽減されたのでした。
高校でもけい子は優秀な成績をおさめ、大学への進学を目指すようになりましたが、当時、大学進学を援助する奨学金制度は大変に狭き門であり、申請は受理されませんでした。
それでも、けい子の学問探究への思いはおさまらず、両親を説得。当時の先進的な学問であったコンピュータープログラミングを学ぶため、京都コンピュータ学院へ進学します。
けい子は京都コンピュータ学院卒業後、企業へ就職を果たしましたが、その能力をかわれ、公明党衆議院候補の選挙事務所のお手伝いもするようになりました。
そこで公明党の議員や党員の方々に接する中で、党の理念や政策実現力に大きく共感するようになったのでした。
やがて結婚し、四人の子供達にも恵まれたけい子は、自身がしてもらったように、子供達への教育に全力を尽くそうと決心しました。
子供達が次々と進学を希望する中、たいへん家計は圧迫されましたが、大根の皮やブロッコリーの芯、魚の骨までも絶品料理にしてしまう節約の技で、窮地を次々と乗り越えて行きました。
夫が脳梗塞で倒れたり、会社でリストラにあって転職したりと、経済的にはどん底だった時もありましたが、子供達の未来を軌道修正させることは一度もありませんでした。
どんな苦境にあっても、けい子は子供達に、こう言い切ります。「我が家は決して貧乏なんかじゃないよ!みんながもれなく望んだ道を歩むことのできる、どこよりも裕福な家庭なんだよ!」と。
ようやく夫の収入も安定し、子育てからも少しずつ開放される中、けい子の中で一つの思いが膨らんでゆきました。
それは、若き頃に誓った、「自らが社会のリーダーとして、より良き社会の構築のために、この身を投げ打とう」との決心であり、「女性の活躍が期待される中、これまで自身が社会から受けた恩恵を、さらに大きなものにして、お返ししたい」との思いでした。
公明党の理念に共感する中で、その思いは、公明党市政相談女性委員長として、地域や市民の声に耳を傾ける、形ある活動になってゆきました。
そしてこの度、けい子は、最も苦しんでいる人々のために、自らが先頭に立って戦うことを決め、来たる市会議員選挙への出馬を決意。
今日も地域の方々の心に寄り添い、声をカタチにするため、全力で東奔西走する毎日です。